なんでも避難所 2022/04/30(土)

810 避難民のマジレスさん :2022/04/30(土) 12:28:28 ID:R4vJvKO60>>812
ラマナ・マハルシとの対話 313

グリーンリース氏
 バガヴァンは昨日、人が「内なる神」の探求に従事している間は、外側の仕事は自動的に進むだろうとおっしゃいました。
 シュリ・チャイタニヤの生涯には、彼は生徒たちへの講義をしながらクリシュナ(真我)を探し求めているうちに、自分の体がどこにあるのか忘れてしまい、クリシュナのことを話し続けたと説明されています。
 このように考えると、仕事は放っておいても大丈夫なのか、という疑問が湧いてきます。
 身体的な仕事に一部でも注意を向けるべきでしょうか?

マハルシ
 真我がすべてです。
 今、私はあなたに尋ねます。
 あなたは真我から離れているのでしょうか?
 真我から離れて仕事は続けられるでしょうか?
 あるいは、身体は真我から離れているのでしょうか?
 どれも真我から切り離すことはできません。
 真我は普遍的なものです。
 ですから、あなたが自発的に従事するかどうかにかかわらず、すべての行為は続いていきます。
 仕事は自動的に進んでいきます。
 真我に注意を向けることは、仕事に注意を向けることを含んでいます。

質問者
 もし私が仕事に注意を向けなかったら、仕事はうまくいかないかもしれません。

マハルシ
 あなたは自分自身を身体と同一視しているので、仕事は自分によってなされるものだと考えています。
 しかし、身体と、仕事を含む活動は、真我から離れたものではありません。

 あなたが仕事に注意を向けるかどうかが、どうしたというのでしょうか?
 例えば、あなたがある場所から別の場所へ歩いたとします。
 あなたは一歩一歩に注意を払っているわけではありません。
 しかし、しばらくすると、あなたは気づくと目的地に到着しています。
 仕事、つまり歩くという行為は、あなたがそれに注意することなく続いていたことに気づきます。
 他の種の仕事についても同じです。

質問者
 では、それは寝ながら歩いているようなものですね。

マハルシ
 全くその通りです。
 子供がぐっすり眠っているとき、母親は子供に食事を与えます。
 子どもは、起きているときと同じように、その食べ物をよく食べます。
 しかし、翌朝、その子は母親に「お母さん!昨日の夜はご飯を食べなかったよ」と言います。
 それでも、母親や周りの人たちは、その子が食べたことを知っています。
 しかし、本人は「食べていない」と言います。
 本人は気づいていませんが、行為は続いていたのです。
 夢遊病は、まさにこの種の仕事の良いアナロジーです。

 別の例を見てみましょう。
 荷車に乗った乗客が眠ってしまいました。
 その旅の途中で、牛は動いたり、立ち止まったり、頚木を解かれたりします。
 彼はこれらの出来事を知りませんが、目を覚ますと違う場所にいることに気づきます。
 彼は途中の出来事について至って無知でしたが、彼の旅は終わったのです。

 人の真我ついても同じです。
 彼は身体の中で眠っています。
 彼の覚醒状態は牛の動きであり、彼の三昧は牛の静止状態です(なぜなら三昧=ジャーグラト・スシュプティであるため)。
 つまり、彼は行為に気づいていますが執着していないのです。
 だから、牛は引き具につながれていますが、動かないのです。
 彼の眠りは牛の頚木を解くことです。
 なぜなら、活動の完全な停止は、牛が頚木から解放されることに相応するからです。

 さらに別の例もあります。
 映画館では、シーンがスクリーンに映し出されます。
 しかし、動画はスクリーンに影響を与えたり、変化させたりはしません。
 見る者は画像に注意を払い、スクリーンを無視します。
 画像はスクリーンから分離することはできません。
 それでもスクリーンの存在は無視されます。
 このように、真我もまた、その上に画像、すなわち行為が進行しているスクリーンなのです。
 人は、前者を無視して、後者を意識しています。
 それでも、彼は真我から離れていません。
 意識していようがいまいが、行為は続いていくのです。

質問者
 映画館にはオペレーターがいますね。

マハルシ
 映画館は非生命の材料でできています。
 スクリーン、画像、照明などは非生命であり、オペレーター、つまり生命意識を持つ行為者を必要とします。
 真我の場合、それは意識そのものですから、必要なものは全て揃っています。
 オペレーターが別に存在することはありえません。

質問者は、上記の回答が示唆するように、自分が身体とオペレーターを混同していないと抗議した。

811 避難民のマジレスさん :2022/04/30(土) 12:29:14 ID:R4vJvKO60>>812
マハルシ
 身体の機能は、オペレーターの要求を伴っていることを覚えておかなければなりません。
 なぜなら身体という非生命体には、オペレーター、生命意識を持った代理人が必要だからです。

 人々は自分がジーヴァだと思っているので、シュリ・クリシュナは、神がジーヴァのオペレーターとしてハートに宿っていると言ったのです。
 実際には、ジーヴァもオペレーターもいません。
 真我がすべてを構成しています。
 それはスクリーンであり、画像であり、観客であり、演者であり、オペレーターであり、照明であり、その他すべてなのです。
 あなたが真我を身体と混同し、自分自身を演者として想像することは、観客を映画の画像の中の演者だと述べているのと同じことです。
 画像の中の演者が、スクリーンなしでシーンを演じることができるかどうか尋ねるのを想像してください。
 真我と離れて行為をしていると考えている人はこのようなものです。

質問者
 観客に映画の画像の中で演技をしてくれと頼んでいるようなものです。
 夢遊病が望ましいようですね。

マハルシ
 カラスは、どんなものを見るにも、どちらかの目に虹彩を1つだけ入れるという説があります。
 虹彩はただ1つですが、眼窩はふたつあります。
 その視覚は望むままに操られます。

 また、象は1本の鼻で呼吸をし、水を飲むなどの行為をします。

 また、蛇は見るにも聞くにも同じ器官を使うといわれています。

 同様に、行為や状態も、その人の視点によります。
 眠りながらの覚醒も、覚醒しながらの眠りも、夢を見ながらの眠りも、夢を見ながらの覚醒もほぼ同じです。

質問者
 私たちは、物理的な覚醒の世界で、物理的な身体を扱わなければなりません。
 もし仕事の最中に眠ったり、眠りが襲ってきたときに仕事をすると、仕事がうまくいかなくなります。

マハルシ
 睡眠は無知ではありません。
 それはあなたの純粋な状態です。
 覚醒状態は知識ではなく、無知です。
 睡眠には完全な自覚があり、覚醒には完全な無知があります。
 あなたの真の本性は、その両方をカバーし、それを超えて広がっています。
 真我は、知識も無知も超えています。

 睡眠、夢、覚醒は、真我の前を通過する様態にすぎません。
 あなたが気づいているかどうかに関わらず、それらは進行します。
 それが、覚醒、三昧、深い眠り、夢の状態が通過するジニャーニの状態であり、それは前述したように、乗客が眠っているときに牛が動いたり立ったり頚木を外されたりするようなものです。
 これらの質問は、アジニャーニの観点からのものであり、そうでなければこれらの質問は生じません。

質問者
 もちろん、真我にとってそれらが生じることはありえません。
 そこに尋ねることができる誰がいるというのでしょうか?
 しかし、残念ながら私はまだ真我を実現していないのです。

マハルシ
 それこそが、あなたの道を阻んでいるものです。
 あなたは、自分がまだ真我を実現していないアジニャーニであるという考えを捨てなければなりません。
 あなたは真我なのです。
 一時でも、あなたが真我から離れていたことがあったでしょうか?

質問者
 つまり、それは夢遊病、あるいは白昼夢の実験なのです。

バガヴァンは笑った。

812 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2022/04/30(土) 22:52:57 ID:1d4drIFg0

 マハリシは仕事をしている時でも真我に注意を向けるようというのじゃ。
 全ては真我であるからというのじゃ。
 自分が仕事をしているという思いがあれば、自我の強化になってしまうのじゃ。
 肉体が自動的に仕事を処理していく過程を見守るのじゃ。
 そうすれば仕事によって修行も進んでいくのじゃ。

なんでも避難所 2022/04/30(土)

96 避難民のマジレスさん :2022/04/30(土) 21:38:04 ID:YlWLof520>>98
スマナサーラ長老ってこのままだと死後どこにいくと思いますか?

97 避難民のマジレスさん :2022/04/30(土) 21:48:30 ID:YlWLof520>>98
悟るとどうして輪廻しないとわかるのですか?
悟っても将来何が起きるかわからないと思うのですが。

98 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2022/04/30(土) 22:14:32 ID:1d4drIFg0
>>96 それほど悪事もしていないから、人間じゃな。
 自分でわかって嘘をついているのではなく、周りから阿羅漢じゃとか言われてその気になっているのであるからのう。
 迷いから迷いにさまよう人間を続けるじゃろう。

>>97 そもそも輪廻するものがないと気づくからなのじゃ。
 輪廻するものがないから、輪廻もないと気づくのじゃ。
 輪廻とは個我であるものが、死んでもまた同じ個我として生まれかわるという概念であるからのう。
 
 個我とか魂とか自性とかが移動するという概念なのじゃ。
 それがないと知れたら、輪廻という移動もないのじゃ。

なんでも避難所 2022/04/29(金)

808 避難民のマジレスさん :2022/04/29(金) 07:13:21 ID:/kN5DyGE0>>809
ラマナ・マハルシとの対話 312

プーナのV・K・チョールカル氏
 「汝自身を知れ」、あるいは、あなたの中の「私」が誰であるかを知りなさい言われています。
 それを行う方法は何でしょうか?
 ただ機械的にずっとマントラを繰り返すだけでいいのでしょうか、それとも、なぜマントラを繰り返しているのか、その都度思い出しながらやらなければならないのでしょうか。

マハルシ
 あなたは、いつも自動的にマントラを繰り返しています。
 もし、永遠に続いているそのアジャパ(無言の詠唱)に気づいていないのなら、ジャパに取り組むべきです。
 ジャパは努力を伴って行われます。
 その努力とは、他の想念を追い払うことを意味しています。
 そうして、ジャパは精神的、内面的なものになります。
 最後に、そのアジャパと永遠の本性が実現されるでしょう。
 なぜなら、それはあなたの努力なしでも続いていることがわかるからです。

 努力のない状態が、実現の状態なのです。

チョールカル氏は、再び実践的な観点からの、つまり彼自身に適した教えを求めた。

マハルシ
 それは、外的なものではないので、他に求める必要はないのです。
 それは内的なものであり、また永遠でもあります。
 それは常に実現されています。
 しかし、あなたは気づいていないと言います。
 それはそれ自身への絶え間ない注意を必要とします。
 それ以外の努力は必要ありません。
 あなたの努力は、他の想念に気を取られないようにすることだけを意味しています。

その人物は満足した。

809 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2022/04/29(金) 23:00:54 ID:1d4drIFg0

 マントラも極め尽くせば悟りへの道になるものじゃ。
 途中で諦めてしまうのではいかんのじゃ。
 長く続けられる方法が自分にあった法なのじゃ。
 合っていなければ長くは続けられないのじゃ。
 そうであるから実現されているとマハリシは言うのじゃ。
 一つの法を極めつくすまで実践し続けることだけが大事なのじゃ。

なんでも避難所 2022/04/29(金)

93 避難民のマジレスさん :2022/04/29(金) 20:16:36 ID:rlAecqNg0>>95
鬼和尚様

先日も私の質問に答えてくださり本当にありがとうございます。薬としてなら良いんですね。

94 避難民のマジレスさん :2022/04/29(金) 22:19:28 ID:M/Ch4a1s0>>95
鬼和尚は記憶を持つものが自分であると思っていたそうですが、人によってはそうでないこともありますか?

95 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2022/04/29(金) 22:48:05 ID:1d4drIFg0
>>93 そうじゃ、昔から使われていたからのう。
 またおいでなさい。

>>94 そうじゃ、あるじゃろう。
 感情が自分と認識している者もいるじゃろう。
 思考が自分と認識している者もいるじゃろう。
 唯物論の者達は肉体以外に自分はないと認識しているじゃろう。
 自分が何を自分と認識しているのか、観察によって明らかにすると善いのじゃ。

なんでも避難所 2022/04/28(木)

805 避難民のマジレスさん :2022/04/28(木) 07:37:13 ID:egdLjUPU0>>807
ラマナ・マハルシとの対話 311

1937年1月2日

マハルシ
 立ち昇る「私」はまた、沈みます。
 それは個の「私」あるいは「私」という観念です。
 立ち昇らないものは、沈むことはありません。
 それは在り、永遠に在り続けます。
 それが普遍的な「私」、完全な「私」、すなわち真我の実現です。

午後5時30分、スイス人の女性がシュリ・バガヴァンに、瞑想をしばらく続けると頭が痛くなると訴えた。

マハルシ
 もし、瞑想者と瞑想が同じものだと理解されれば、頭痛や同様の訴えはなくなるでしょう。

質問者
 しかし、それらは異なっています。
 どうして同じものだと考えられるでしょうか?

マハルシ
 それは、あなたの視点のためです。
 ただ一つしかなく、違いはないのです。
 瞑想すれば、相対的な意識は消え去ります。
 それが全滅ではないのは、絶対的な意識が生じるからです。
 聖書には、「天の国はあなたの内にある」と書かれています。
 もし、あなたが自分自身を身体だとみなしているなら、この言葉を理解するのは難しいでしょう。
 一方、あなたが本当の自分を知っているなら、天の国もすべても、あなたの真我に含まれています。
 それらは、自我が発生した後に生じた概念です。
 ドリシュティン・ジニャーナマイーン・クリトヴァ・パシュエード・ブラフママヤン・ジャガト(あなたの目を内に向け、それを絶対化しなさい)。
 その絶対的な自覚を実現した上で、外を見れば、宇宙は実現された絶対なるものと不可分であることに気づくでしょう。

 あなたの視点は外に向けられているので、あなたは「外」のことを話します。
 その状態であるために、あなたは「内」を見ることを勧められているのです。
 この「内」は、あなたが求めている「外」に対して相対的なものです。
 実際は、真我は外でも内でもありません。

 天について語るとき、人は天を上か下か、内か外かのように考えますが、それは人が相対的な知識に慣れているからです。
 人は客観的な知識だけを求めているので、このような考えになってしまうのです。

 現実的に言えば、上も下もなく、内も外もないのです。
 もしそれらが実在するならば、夢のない眠りの中にも存在するはずです。
 なぜなら、実在するものは、連続的で永久的でなければならないからです。
 睡眠中に「内」や「外」を感じたでしょうか?
 もちろん違います。

質問者
 私は覚えていません。

マハルシ
 もしそこに何かがあれば、それは思い出されるでしょう。
 しかし、あなたはそのときの自分の存在を認めています。
 同じ真我が今話しているのです。
 眠っているときには未分化だった真我が、現在の状態では分化しており、多様性を見ているのです。
 真の実在とは、客観的な知識を欠いた唯一のものです。
 それが絶対意識です。
 それこそが、私たち全員が認める幸福の状態です。
 その状態は、この起きている状態においてさえももたらされなければなりません。
 それはジャーグラト・スシュプティと呼ばれます。
 それがムクティです。

806 避難民のマジレスさん :2022/04/28(木) 07:38:09 ID:egdLjUPU0>>807
質問者
 自我が、輪廻転生するものです。

マハルシ
 そうです。
 しかし、輪廻転生とは何でしょうか?
 自我は同じままです。
 新しい身体が現れて、それを保持します。
 自我は変わりません。
 それが一つの身体を離れ、別の身体を探して見つけることはありません。
 あなたの粗大な身体にさえも何が起こるのか見てみましょう。
 あなたがロンドンに行くとします。
 どうやって行きますか?
 乗物を使って波止場に行き、汽船に乗り込み、数日でロンドンに到着します。
 何が起こったのでしょうか?
 乗物は動きましたが、あなたの身体は動きませんでした。
 それでもあなたは、地球のある部分から別の部分へと旅したと言います。
 乗物の動きがあなたの身体に重ねられているのです。
 あなたの自我についても同様です。
 輪廻転生は、重ね合わせです。
 例えば、夢の中で何が起こるのでしょうか?
 あなたは夢の世界へ行くのでしょうか、それともそれはあなたの中で起こるのでしょうか?
 間違いなく後者でしょう。
 ちょうど転生と同じです。
 自我はずっと変化しないままです。

 繰り返しになりますが、あなたの眠りの中には時間も空間もありません。
 それらは「私」という想念が生じた後に生じる観念です。
 「私」という想念が立ち昇る前には、観念は存在しません。
 ですから、あなたは時間も空間も超えているのです。
 「私」という想念は限定された「私」に過ぎません。
 真の「私」は無限で、普遍的で、時間も空間も超えています。
 観念は眠っているときは存在しません。
 ちょうど眠りから覚め、外の世界を見る前に、あなたの純粋な真我である自覚の状態が存在します。
 それが知られなければなりません。

質問者
 しかし、私はそれがわかりません。

マハルシ
 それは、理解の対象ではありません。
 あなたがそれです。
 いったい誰が、そして何を理解するというのでしょうか?

807 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2022/04/28(木) 23:05:27 ID:1d4drIFg0

 瞑想をして思考や雑念が消えたならば、それでも消えない意識が在るとわかるじゃろう。
 意識は常にあり、滅することはないのじゃ。
 それは肉体に縛られたものでもないのじゃ。
 常にあり続け変ることはないのじゃ。

なんでも避難所 2022/04/28(木)

803 避難民のマジレスさん :2022/04/27(水) 07:08:37 ID:OSx.b5H.0>>804
ラマナ・マハルシとの対話 310

グリーンリース氏
 10月にこのアーシュラマムを去った後、私は10日間ほどバガヴァンの平安に包まれていることに気づきました。
 仕事に追われている間じゅう、その一体感の平安が奥底を流れていたのです。
 それは、退屈な講義で半分眠っているときの二重意識のようなものでした。
 そして、それは完全に消え去り、代わりに以前の愚かさが戻ってきたのです。

 仕事が、瞑想する時間を残してくれません。
 常に「私は在る(I Am)」を思い出し、実際に仕事をしながらそれを感じようとすることで、十分なのでしょうか。

マハルシ
 それは、心が強くなったときに、常にできるようになります。
 繰り返し修練することで心が強くなり、そのような心は流れにつかまることができるようになります。
 その場合、仕事に従事していようがいまいが、流れは影響を受けず、途切れることはありません。

質問者
 別の瞑想はまったく必要ないのですか?

マハルシ
 瞑想は、今のあなたの真の本性です。
 あなたがそれを瞑想と呼ぶのは、他の想念があなたの気を散らしているからです。
 これらの想念が払い除けられたとき、あなたは一人、つまり想念から解放された瞑想の状態にとどまるのです。
 そして、それこそが、あなたが今、他の想念を遠ざけることによって得ようとしている、あなたの真の本性なのです。
 このように他の想念を遠ざけることが今、瞑想と呼ばれています。
 修練がしっかりしたものになると、真の本性がそれ自身を真の瞑想として顕わします。

 あなたが瞑想しようとすると、他の想念がより力強く生じるのです。

すぐに他の数名が質問を一斉に唱えた。

シュリ・マハルシは続けた。

マハルシ
 そうです、瞑想中にはあらゆる種類の想念が生じます。
 それはまったく正しいことです。
 あなたの中に隠れているものが引き出されるのです。
 それらが浮かび上がってこない限り、どうして破壊されうるのでしょうか?
 それゆえ、それらは、やがて消滅させられるために自然に浮かび上がり、このようにして心を強くするのです。

訪問者
 すべてはブラフマンであると言われています。

マハルシ
 そうです、すべてはブラフマンです。
 しかし、あなたがそれらが分離していると考える限り、それらは避けられなければなりません。
 一方、それらが真我であることが分かれば、「すべて」と言う必要はありません。
 なぜなら、存在するものはすべてブラフマンだけだからです。
 ブラフマンの他には何もありません。

質問者
 リブ・ギーターは、非常に多くの対象を非現実であると語り、最後に、それらはすべてブラフマンであり、したがって現実であると付け加えています。

マハルシ
 そうです。
 あなたがそれらを非常に多くのものとして見るとき、それらはアサット、すなわち非現実です。
 しかし、あなたがそれらをブラフマンとして見るとき、それらは現実であり、それらの基質であるブラフマンから現実性を引き出しているのです。

質問者
 なぜウパデーシャ・サーラムは、身体などをジャダ、すなわち非生命だと語っているのですか?

マハルシ
 あなたが、それらは真我から離れた身体などであると言う限りにおいてです。
 しかし、真我が見いだされれば、この身体なども真我の中にあることがわかります。
 その後、誰もその質問をしなくなり、誰もそれらが非生命であるとは言わなくなります。

質問者
 ヴィヴェーカは、真我と非真我を識別することだと言われています。
 非真我とは何ですか?

マハルシ
 実は、非真我というものはありません。
 非真我は真我の中にも存在します。
 真我が非真我のことを語るのは、自分自身を忘れてしまったからです。
 それは自分自身を見失ってしまったので、結局のところ自分自身以外の何ものでもないものを非真我と思い込んでいるのです。

こうして、諸説の主唱者たちの議論は白熱した。

804 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2022/04/28(木) 00:03:47 ID:1d4drIFg0

 瞑想とは真の本性以外の想念を遠ざけることだというのじゃ。
 最初は想念がいろいろと浮かんでくるが、瞑想を続けていれば全て滅して行くのじゃ。
 そして思考に隠されていた真の本性も観えてくるのじゃ。
 それが全てであるブラフマンなのじゃ。
 全てのものごとは全く同じ本性をもっているからなのじゃ。
 自分自身にあるその本性を追求することで、全ての本性も見出せるのじゃ。

なんでも避難所 2022/04/27(水)

90 避難民のマジレスさん :2022/04/27(水) 20:36:24 ID:h5P9mv0k0>>92
善行と悪行を同じくらいの比率でしてきた人間が、すこしだけ多めに善行をして死んだ場合、天に行けるのでしょうか?
そんなに甘い話ではないのですか。
また人間に生まれて同じような事を繰り返し、そして苦しんで死んでいくのを延々と繰り返していくのでしょうか。

92 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2022/04/27(水) 23:59:48 ID:1d4drIFg0
>>90 その位では無理じゃろう。
 人になるだけじゃな。
 少しは環境がよくなる程度なのじゃ。
 
 人として生まれたチャンスを生かして、自分を追及し続ければ輪廻から抜け出ることもできるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

なんでも避難所 2022/04/27(水)

86 避難民のマジレスさん :2022/04/27(水) 00:58:40 ID:K08fOcCE0>>91
>>84
動植物虫界の共生とはロボットが設定されたプログラムに従って他に仕えることでしょう。
鮭が産卵後河を骸だらけにするのも
熊が狩った餌を残すのも
虫が鳴くのも
食べ物を探すのも
長距離を移動するのも
ビーバーがダムを作るのも
何をどの様に補食するのかも
強い遺伝子を残す為に闘争するのも
彼らが自己の為にやっている様に見えても
それが彼らの意思であっても
その本質は肉体やシステムを創造したクリエイターが決めたプログラム通りに働いているだけです。
他と闘い食い殺しても別の被造物の利益に必ず直結している故に他の為と創造主の為に仕えていると言えます。
人類が存在しない場所でもそれは既に変わらない事実です。

家畜の世界はあからさまです。
家畜は人間に仕える用に作られた動物です。
それは品種改良などではなく1からという意味です。
彼らはバイクであり車であり、コンバインでありクレーン車、戦車、兵隊です。
馬には人を乗せる仕事の為にインターフェースが設定されてます。
犬が群隊の序列に人間を含めるのは彼らが人に仕える兵隊だからです。
庭鳥が飛べず、無精卵を産むのも人の為、
象や牛も同様です。
家畜な関しては搾取の言い訳にはあたりません。人類ありきの動物です。


客観的に観察すれば解る事です。
むしろ一般的に言われている常識こそ人間中心に考えられた片寄った狭い了見です。
恐竜ですらその幾つかのデザインから当の時代に人類が居た事が導きだせます。

卵と鶏どちらが先か?
仕事が先で形が次ということです。


ロボットが命令プログラム通りの行動をしてそれが悪というのなら、
常に傷つけ合うシステムや肉体の創造主こそ悪なのではないのですか
その悪をやめる選択はロボットには設定されてないのですから。

そして法に善悪がないのならば悪こそ、自分があるから存在する概念、
特定の状態の安定に対する影や不都合に付けた名前と分類なのではないのですか。

しかしまぁ、宇宙五分前仮説が真理なら全てはゴミグズで覆るワケですが。

87 避難民のマジレスさん :2022/04/27(水) 12:23:42 ID:aMk4njgI0>>91
>>85
ありがとうございます。
思いがけない言葉をいただいて、これから何回も読み返して、考えてみます。

88 避難民のマジレスさん :2022/04/27(水) 12:45:59 ID:aMk4njgI0>>91
最初の3行に、人のせいではなく、自分の問題なのだとハッといたしました。

89 83 :2022/04/27(水) 18:51:31 ID:kRdzYdak0>>91
>>85
鬼和尚さん、安心できました。
さらに練習を続けます。
ありがとうございます

91 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2022/04/27(水) 23:57:52 ID:1d4drIFg0
>>86 そのクリエイターというのを観察すると善いのじゃ。
 どのような色形わしているのかとか。
 男なのか女なのかとか。

 なぜ人類ありきの動物とか思うのか、自分の心を観察して滅するのじゃ。

 客観的に観察すれば解る事じゃ。
 人類ありきの動物というのが人間中心に考えられた片寄った狭い了見であると観るとよいのじゃ。

 創造主というのが居ると思うならば、なぜそのような妄想をもつのか、自分の心を観察して滅するとよいのじゃ。

>>87>>88 そうじゃ、実践して確かめるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>89 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。