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質問者
真我を実現した後のジニャーニに人格はあるのでしょうか?
マハルシ
どうして人格を保ち続けることができるでしょう?
世俗の仕事であれ非世俗の仕事であれ、年長の人たちは仕事にかかる前にアーチャマナ(水を一口飲む)やプラーナーヤーマ(調息)を勧めます。
つまり精神集中が仕事を達成へと導くのです。
質問者
私は「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)に瞑想しています。
マハルシ
いいえ、それは瞑想ではありません。
源を見いだしなさい。
確実に源にたどり着かなければならないのです。
そうすれば偽りの「私」は消え去り、真の「私」が実現されるでしょう。
前者は後者なしには存在できないのです。
【そこにはそこに行く人がいるはずです】
「天国や地獄に行くと信じている個人が存在しなければ天国や地獄も存在しえない。その個人とは誰か?」ということをマハルシは示唆している。
【叡知の捧げ物(ジニャーナ·ヤグニャ)】
『バガヴァッド・ギーター』第4章24節から33節は、
「ブラフマンは供犠である。ブラフマンは捧げ物である。それはブラフマンによりブラフマンである火の中に焼べられる」と説き、感覚器官の制御、自己抑制、財物、学習、知識、気息(プラーナ)などのさまざまな捧げ物を挙げている。
そして 「さまざまな捧げ物の中でも叡知による棒げ物 (真我の知識を捧げること) が最も優れていている」と説いている。
【眉間に注意を集中し、呼吸を止めるなら…】『バガヴァッド・ギーター』5ー27、28
外界の感覚的対象をすべて閉ざし、眼を眉間に集中させ、鼻腔内の呼気と吸気を均等にして、心と感覚と知性を制御し、欲望と恐れと怒りを離れて解説を目指す。
この境地に常に在る者は、まさに解脱している。
【なぜ「私はこれだ」と考えるのでしょうか?】
このマハルシの答えの部分は1、2行の記録漏れがあると考えられる。
「私はこれだ」とは、「私」を身体や心、性別や国籍などとの同一視を意味している。
【『ヨーガ・ヴァーシシュタ』(シキドヴァジャと女王チューダーラーの物語)
マルヴァ王国の王シキドヴァジャと女王チューダーラーは快楽を満たす生活に満足できず、ともに真我の知識を採究した。
先に真我を実現したチューダーラーの境地を理解できずにいた王は、1人王国を放棄すると森に隠通して瞑想生活に入り、後に残されたチューダーラーは賢明な王国統治をする。
数年の後、彼女はクンバというバラモンに姿を変えて、苦行する王の前に現れ、隠遁生活や苦行や放棄では真我実現できないことを説き明かし、真我探究によって彼を実現へと導いた。
2人は賢者として王国に戻り、国を統治しながら自由で幸福な人生を送った。
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>>995
真我を実現した後・・・人格を保ち続けることができない。
そのことと、
>精神集中が仕事を達成へと導く
ことと、なんの関係があるのでしょうか?
人格が精神集中を邪魔するのでしょうか?
> 私は「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)に瞑想しています。
マハルシ
いいえ、それは瞑想ではありません。
念じたり、唱えたりする集中よりも、瞑想は観察が大切と言うことでしょうか?
(´・(ェ)・`)つ
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>>997 そもそも人格などはないということなのじゃ。
忘我で仕事をすることで効率も良くなるのじゃ。
自我が邪魔をしないからなのじゃ。
悟っていない者も人格ではなく、精神の集中で仕事をしているのじゃ。
そうじゃ、それは瞑想ではないのじゃ。
観察するための実践なのじゃ。
全ての観念を否定するのであるからのう。
その果てにあるアートマンを見出すための実践なのじゃ。
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↑そうかもしれん。
無我に至らなくとも忘我のサマーディにまで到達すれば、主体の無い行為も出来るのじゃ。
行為の結果も望まず、行為が出来るのじゃ。
カルマヨーガと同じなのじゃ。
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>>991
そのカルマヨガは、忘我にすら至らなくても、日常的に意識的に実践できることのような気がするのですが、勘違いでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
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質問者
真我を実現した後のジニャーニに人格はあるのでしょうか?
マハルシ
どうして人格を保ち続けることができるでしょう?
世俗の仕事であれ非世俗の仕事であれ、年長の人たちは仕事にかかる前にアーチャマナ(水を一口飲む)やプラーナーヤーマ(調息)を勧めます。
つまり精神集中が仕事を達成へと導くのです。
質問者
私は「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)に瞑想しています。
マハルシ
いいえ、それは瞑想ではありません。
源を見いだしなさい。
確実に源にたどり着かなければならないのです。
そうすれば偽りの「私」は消え去り、真の「私」が実現されるでしょう。
前者は後者なしには存在できないのです。
【そこにはそこに行く人がいるはずです】
「天国や地獄に行くと信じている個人が存在しなければ天国や地獄も存在しえない。その個人とは誰か?」ということをマハルシは示唆している。
【叡知の捧げ物(ジニャーナ·ヤグニャ)】
『バガヴァッド・ギーター』第4章24節から33節は、
「ブラフマンは供犠である。ブラフマンは捧げ物である。それはブラフマンによりブラフマンである火の中に焼べられる」と説き、感覚器官の制御、自己抑制、財物、学習、知識、気息(プラーナ)などのさまざまな捧げ物を挙げている。
そして 「さまざまな捧げ物の中でも叡知による棒げ物 (真我の知識を捧げること) が最も優れていている」と説いている。
【眉間に注意を集中し、呼吸を止めるなら…】『バガヴァッド・ギーター』5ー27、28
外界の感覚的対象をすべて閉ざし、眼を眉間に集中させ、鼻腔内の呼気と吸気を均等にして、心と感覚と知性を制御し、欲望と恐れと怒りを離れて解説を目指す。
この境地に常に在る者は、まさに解脱している。
【なぜ「私はこれだ」と考えるのでしょうか?】
このマハルシの答えの部分は1、2行の記録漏れがあると考えられる。
「私はこれだ」とは、「私」を身体や心、性別や国籍などとの同一視を意味している。
【『ヨーガ・ヴァーシシュタ』(シキドヴァジャと女王チューダーラーの物語)
マルヴァ王国の王シキドヴァジャと女王チューダーラーは快楽を満たす生活に満足できず、ともに真我の知識を採究した。
先に真我を実現したチューダーラーの境地を理解できずにいた王は、1人王国を放棄すると森に隠通して瞑想生活に入り、後に残されたチューダーラーは賢明な王国統治をする。
数年の後、彼女はクンバというバラモンに姿を変えて、苦行する王の前に現れ、隠遁生活や苦行や放棄では真我実現できないことを説き明かし、真我探究によって彼を実現へと導いた。
2人は賢者として王国に戻り、国を統治しながら自由で幸福な人生を送った。
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>>995
真我を実現した後・・・人格を保ち続けることができない。
そのことと、
>精神集中が仕事を達成へと導く
ことと、なんの関係があるのでしょうか?
人格が精神集中を邪魔するのでしょうか?
> 私は「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)に瞑想しています。
マハルシ
いいえ、それは瞑想ではありません。
念じたり、唱えたりする集中よりも、瞑想は観察が大切と言うことでしょうか?
(´・(ェ)・`)つ
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>>992 少しの間ならばできるじゃろう。
しかし、人は成果の見えない仕事にはやる気を失ってしまうのじゃ。
心理学でも証明されているのじゃ。
成果の見えない仕事を延々とやり続けるのは最低でも我を忘れてやるしかいないのじゃ。
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対話46
あるブラーフマナ(バラモン)階級の人が質問を始めた。
質問者
行為が私たちのものかどうかを、どうやって知るのでしょうか?
マハルシ
行為の結果が影響を与えなければ、人は行為から自由なのです。
質問者
知的な理解だけで十分でしょうか?
マハルシ
知的に知るまでは、どのように修練するかもわからないでしょう。
まず知的に理解しなさい。
それから、そこで止まらず実践に移しなさい。
マハルシはある所見を述べた。
マハルシ
あなたが一つの哲学的体系に固執すれば、他をとがめずにはいられなくなるでしょう。
例えば、僧院の院長のように。
すべての人が同じ類の行為をするように期待することはできません。
各人がそれぞれの気質や過去世にしたがって行為するのです。
叡知(ジニャーナ)、帰依(バクティ)、行為(カルマ)はともに関わり合い、交わり合っています。
姿形への瞑想はその人の心に応じたものとなります。
それは他の形を避けて、心を一つの形だけに集中させることです。
それが目標へと導くでしょう。
初めのうちから心をハートに固定させるのは無理なことです。
だからこそ、こういった助けが必要となるのです。
クリシュナは、「あなたにも、私にも、他の人にとっても誕生はない」と言いました。
後になって、彼は「私はアーディティヤよりも先に生まれた」と言い、アルジュナはそれに対して抗議します。
したがって、各自がそれぞれの進歩の段階に応じた形で神を想うのです。
あなたは、自分は目覚めの状態では身体だと言いますが、眠りの状態では身体だとは言いません。
個人の身体的存在さえいくつかの層から成っているのですから、神に無限の能力があって当然ではないでしょうか?
どのような修練方法にしたがおうとも、それは賢者によって奨励されています。
なぜなら他の方法と同じように、それも目標に導くからです。
【個人の身体的存在さえいくつかの層から…】
この文は前後の文章との脈絡がないため、記録者が2、3の言葉あるいは1、2行の文を記録しそびれたと見られる。
記録者はタミル語を話せない訪問者のために通訳もしていたため、記録は困難だった。
このような記録漏れは、本書の中に何箇所も見られる。
「個人の身体的存在はいくつかの層から成っている」という表現はパンチャ・コーシャ(真我を覆い隠す5つの身体の鞘)を意味している。
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>>989
>行為の結果が影響を与えなければ、人は行為から自由なのです。
これは、OSHOが説明した「無為の為」のことであり、クリシュナが言う、義務を果たすことでありますかね。
(´・(ェ)・`)つ
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↑そうかもしれん。
無我に至らなくとも忘我のサマーディにまで到達すれば、主体の無い行為も出来るのじゃ。
行為の結果も望まず、行為が出来るのじゃ。
カルマヨーガと同じなのじゃ。
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1935年3月22日
対話39
R・セシャギリ・ラーオ氏との会話で、シュリー・バガヴァーンは
「真我を実現した聖者だけが良きカルマ・ヨーギーになれるのです」と語った。
マハルシ
行為者という感覚が消え去った後、何が起こるのか見てみなさい。
シュリー・シャンカラは無為を勧めました。
しかし彼自身聖典の注解を書き、論争に加わらなかったでしょうか?
行為をするかしないかということに煩わされるべきではありません。
あなた自身を知りなさい。
そうすれば、それが誰の行為なのかを知るでしょう。
誰の行為でしょうか?
行為がそれ自体で完結するにまかせなさい。
行為者が存在するかぎり、人は行為の結果を受けなければなりません。
もし自分自身を行為者と見なさなければ、彼にとって行為はないのです。
彼こそが世俗的生活を棄てた修行者(サンニャーシー)です。
質問者
自我はどのように現れたのでしょうか?
マハルシ
それを知る必要はありません。
現在を知りなさい。
現在を知らずして、なぜ過去のことに心を悩ませるのですか?
それから、マハルシはある質問にこう答えた。
マハルシ
世界はあなたの中にあるのでしょうか?
それとも外側にあるのでしょうか?
世界はあなたを離れて存在するでしょうか?
世界があなたのもとにやって来て、「私は存在する」と告げるでしょうか?
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行う者がいなければ行うこともないのじゃ。
行為の主体が無いからなのじゃ。
それが無為なのじゃ。
それは勧められてできるものではないのじゃ。
無我になれば行為は全て無為になるのじゃ。
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対話38
従者の一人が初めてバガヴァーンのもとに来たとき、彼は尋ねた。
「解脱への道とは何でしょうか?」。
マハルシは答えた。
「すでに歩み始めた道が解脱へと導くでしょう」
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誰でも自らの道を行くしかないのじゃ。
実践して進んでいくのじゃ。
実践しなければ進歩も無いのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
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対話37
質問者
カルマとは何でしょうか?
マハルシ
過去世の行為の結果がすでに実を結び始めたものはプラーラブダ・カルマと呼ばれ、過去世で蓄えられ、後に実を結ぶものはサンチタ・カルマと呼ばれます。
それは村人が、からし菜と交換して得た穀物のように種々雑多です。
そのような交換用の穀物には米、ヒエ、大麦などがあり、あるものは水に浮かび、あるものは水に沈みます。
そして質が良かったり悪かったり、どちらでもなかったりします。
蓄積された多様なカルマのうちの最も強力なものが、次の生において実を結び始めるものであり、それがその生におけるプラーラブダ・カルマとなるのです。
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カルマも観念の中でのみあるとされるものじゃ。
観念を超えればカルマもないのじゃ。
悟りを得たヨーギにはカルマが無いとされるのも、そのためなのじゃ。
個我がなければカルマもないのじゃ。
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対話36
北インドから気品ある女性の訪問者が個人秘書を連れて正午に到着した。
しばらく待った後、昼食後にホールに戻ったマハルシに質問した。
質問者
マハーラージ、私たちは死者を見ることができますか?
マハルシ
できます。
質問者
ヨーギーは私たちに死者を見せることができるでしょうか?
マハルシ
できるでしょう。
でも私には頼まないでください。
私にはできませんから。
質問者
あなたは死者を見ますか?
マハルシ
ええ、夢の中で。
質問者
ヨーガを通して目標に達することはできるでしょうか?
マハルシ
できます。
質問者
ヨーガに関する本をお書きになりましたか?
マハルシ
はい。
彼女が去った後で、師は言った。
「親戚が生まれる前、私たちは彼らを知っていたでしょうか?
私たちは彼らの死後についても知るべきでしょうか?」
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死者とは夢の中で会えるのじゃ。
眠りの意識は死の意識と同じであるからのう。
人をその意識に導き、死者とあわせることの出来るヨーギもいるというのじゃ。
夢がコントロールできれば何時でも会えるがのう。
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対話35
教養のある訪問者がマハルシに、ドヴァイタとアドヴァイタ(二元論と不二一元論)について尋ねた。
マハルシ
身体と自己同一視することがドヴァイタで、自己同一視しないことがアドヴァイタです。
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↑は理論ではない実践によるアドヴィタなのじゃ。
肉体と自己同一化していれば自他の別がある二元論に止まっているのじゃ。
肉体との同一化が無ければアドヴィタであるのが如実にわかるのじゃ。
理論によってアドヴィタに辿りつくのではなく、実践によって全てアドヴィタであることがわかるのじゃ。
そこには論を持つ者も居ないのじゃ。