- 970 : 神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 08:43:02 ID:a8S5aYo5 [1/1回]
- 自我だ無我だといっても、一者として生きれるわけでもなし
自我は要るんですよ。
- 971 : 神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 08:54:23 ID:OivH3umI [1/1回]
- われわれは、しかしその自我によって己を知るしかないのだ。
- 990 : 鬼和尚 [sage] 投稿日:2010/04/13(火) 20:23:24 ID:zEUdAqJJ [3/3回]
- >>970 自我を落とす事ができたものがいうなら、それも良かろう。
いずれ無くなるものを要ると思うのは苦を産む因となるだけじゃ。
>>971 そうじゃ、それはどのようなものじゃ?
体なのか思考なのか判断なのか認知なのか。
何によって知られ、どのようにして起こるのか、ひたすら観るのじゃ。
- 941 : 偽和尚 [] 投稿日:2010/04/13(火) 01:12:36 ID:KcIrDs2f [1/3回]
- >>917
私。
- 988 : 鬼和尚 [sage] 投稿日:2010/04/13(火) 20:02:14 ID:zEUdAqJJ [2/3回]
- >>941 警戒せんでも良いのじゃ。
おぬしは長い間このようなチャンスを待ち望んでいたのではないかな?
例えば肉体には目という器官があって見るという機能を保っている。
私というものが判断を行うならば、私というものに判断の器官があって機能を果たして居るのじゃろうか?
それは私というものの持つ機能であろうか?
これも直ぐに答えを出さなくてよいのじゃ。
己の心の内を注意深く観察してみるのじゃ。
いつか驚くべきものが観えるかもしれん。
- 918 : 神も仏も名無しさん[] 投稿日:2010/04/12(月) 21:38:05 ID:Js6i7YFh [6/6回]
- 和尚さん
和尚さんはやはり
南無阿弥陀仏と悟られますね。
(^O^)(*^_^*)
わし、坊様はにがてだなぁ
- 919 : ・・・>┼○ バタッ ~† トースト [hage] 投稿日:2010/04/12(月) 22:22:13 ID:ogKumvZ9 [1/1回]
- >>917 鬼 さん
> >>856 その自我とは何じゃ?
わたしとわたしのわたし。
- 930 : Ron[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 00:04:35 ID:ECWk4wZM [1/9回]
- >>915
>自我が本当に認知、思考、判断しているのか?
本当にそれが無ければ生きられないのか?
うん、いいこと言うねえ、たまには。。
答えはそんなに難しくない。
鬼さん自身答えてみなよ。
この二つの問いに答えられるかい?
- 931 : Ron[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 00:06:51 ID:ECWk4wZM [2/9回]
- 仏教で言う無我とは何か?
鬼は以前、ものすごいデタラメ言ってたからなー。。
- 937 : Ron[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 00:52:14 ID:ECWk4wZM [3/9回]
- 心理学的、認知科学的なシステムとしての自我と、仏教で言う自我は違う。
仏教の認識のほうが高度であるとしても、システムとしての自我がないとは言えない。
自分はこうだという認識と、それに伴う、認知、思考のシステム、それはある。
あったとしても仏教で言う、無我は成り立つ・・すべては無我・・なんででしょう?と言う問題だな。。
こっちが心理学的な話をしているとき、あると言う前提で話しているときに、観念で無いと否定してもどうしようもない。
仏教で言う無我とは、観念じゃない、観念じゃー役に立たんのよ。。
>>934
なんだかわからんww
- 987 : 鬼和尚 [sage] 投稿日:2010/04/13(火) 19:55:53 ID:zEUdAqJJ [1/3回]
- >>918 南無南無じゃ。
>>919 わたしのわたしのわたしとは何じゃ?
>>930>>931 それは不要。
ここまで食いついてきたおぬしへのご褒美じゃ。
何かを掴んで行くがいい。
>>937 自分はこうだという認識とこうだという認識されたもの、どちらがおぬしの自我じゃ?
それとも両方が自我かな?
直ぐに答えを出す必要はない。
自分が何を以って自我としているのか、どのように自分はこのようであるという認識を持っているのか、観察してみるのじゃ。
それが認知や思考、判断の機能を持っているのか?
考えるのではない。感じるままに観察するのじゃ。
- 856 : 偽和尚 [] 投稿日:2010/04/11(日) 23:10:35 ID:S1WRZCNr [1/2回]
- そういやこれが良いこれが悪いとか判断してるのも自我だな。
鯨食うのが良いだの悪いだの。犬食うのが良いだの悪いだの。
アホらしいことだ(と、判断しているのも自我)。
- 917 : 鬼和尚 [sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:52:00 ID:MMKP+nuo [2/2回]
- >>856 その自我とは何じゃ?
- 841 : Ron[sage] 投稿日:2010/04/11(日) 21:10:48 ID:kGGqw9uk [2/2回]
- >>834
言ってること意味不明だが、要するに無我が正しいから、自我があるのは間違いと言う思い込みを垂れ流してるだけのようだ。。
認知、思考、判断する自我がなかったら、どうやって生きていくんだろうね?
あっはっは、そこらへんまともに考えたことないんだろーねー。。
- 915 : 鬼和尚 [sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:47:03 ID:MMKP+nuo [1/2回]
- >>841 そこがおぬしの居る所じゃ。
認知、思考、判断する自我があるという観念。
それがなければ生きていけないという思い込み。
全ては空とか、全ては始めから仏だとか、身についていない知識と実際の自分の思い込みが関連付けられない。
それが今のおぬしであり、それでいいのじゃ。
どれほど仏法の知識を集めようと、自分の自我とは関係ないという拘り。
そこから始めるしかないのじゃ。
その自我を守る衝動は、弱さから来ておる。
弱い自分という潜在観念から自我への言及に恐れを抱き、自分への攻撃ととらえる。
弱い自分が攻撃を受けたから相手を攻撃して良いという思い込みの連鎖が、ここで繰り返されてきた事じゃ。
一切が空であるならば自我も空であろう。
全てが本来仏なら本来全ては自我を持たずして在るであろう。
ここでわしに突っ張る必要はない。
ただ疑うがいい。
自我が本当に認知、思考、判断しているのか?
本当にそれが無ければ生きられないのか?
そもそも自我とは何なのか?
原理原則を疑い観察によって明らかにする時、新しいなにものかが生まれるじゃろう。
- 834 : 鬼和尚 [sage] 投稿日:2010/04/11(日) 20:26:31 ID:BzQLO9ae [1/1回]
- ↑ まっとうな誤解、まっとうな謬見というものがあればまっとうな自我もあるかもしれん。
個我という概念がある時、正しく間違うという事が出来るという謬見も生じるのじゃ。
- 631 : ・・・>┼○ バタッ ~† トースト [hage] 投稿日:2010/04/09(金) 20:56:56 ID:u5GMzq7e [1/2回]
- >>630 鬼 さん
> >>614>>615 なかなか面白いのう。 良い喩えじゃ。 しかし、それを神の映画であるという映画を見ているようじゃのう。
(* ̄ρ ̄)”ほほぅ…
神って、何?
- 647 : 神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 01:39:07 ID:w27htIzp [1/1回]
- おれなんて、悟りを開いたとおもたら、また迷って、
また悟りを開いて、また迷ってと何度もどころか、
毎日のようです。
夜食を買いにバイクで出かけるべきでしょうか。
- 724 : 鬼和尚 [sage] 投稿日:2010/04/10(土) 19:48:52 ID:cmmI0QDc [1/1回]
- >>631 言葉じゃ。
>>647 それでいいのじゃ。
迷いながら進んでいくのじゃ。
夜食はやめて寝る方が良かろう。
- 614 : 神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2010/04/08(木) 22:47:54 ID:h3A7s7x9 [1/2回]
- 思い込みを切り離す第一歩はソクラテスが語ったといわれる「汝自身を知れ」。
なにしろ自分自身を知るのだからこのためにお金は一銭もかからない。
しかし、余りにも錯覚の中で生きてきたため、最も難しいことの一つである。どうするか?
実のところ、普通の人間の一生はカルマによって全てプログラムされて生まれてくるため、
自由意志が入る余地など全く存在しない。そもそも人間はそのままではプログラムされた
通りにしか思考することもできなければ、生きることもできない。これは目に見える肉体の
遺伝子を見れば明らかなことだ。また、金持ちの家に生まれるか貧乏人の家に生まれるか、
あるいはジンバブエに生まれるか、アメリカに生まれるか、あなたは選ぶことができない。
そしてそのことから人生は大きな影響を受ける。
結局のところ、人生とは予め神様が撮影し、編集し、監督した映画を自分で上映して
見ているようなものである。出演者も神様自身である。そのままでは、はじまりも、結末も、
全てが確定していて、そこに選択の余地はないのである。では、その確定した人生に
対する正しい態度とはなんだろうか?
映画を見るとき、登場人物に感情移入すると、あなたは泣いたり笑ったりするが、これって
バカみたいな話ではないだろうか?私はある時期を境に、小説やドラマや映画を見ても全く
感情が動かされることがなくなってしまっているのに気がついた。例えばゾンビが出てきて
飛びかかってくるシーンがあるとしよう。女優さんはギャーとか言うだろうけど、私は自分が
自分の部屋にいて、それがテレビの上のスクリーンの光の戯れであり、登場するゾンビが
作り物だとわかっているから、何にも心が動かされないのである。
- 615 : 神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2010/04/08(木) 22:48:58 ID:h3A7s7x9 [2/2回]
- 要点はこうだ。
人間は見る前から作り物だと承知しているような映画の中の登場人物に対してさえ、
自己同一化し、かわいそうだと思ったり、喜んだり、怖がったりする。
しかし、それが映画であると承知していて、テレビの画面の上でなにやら絵が動いている
という捉え方しかしなければ、そこに感情が入り込むことはないのである。
生命の樹に隠されたセフィロト、ダアトが意味する神の知識とは、この事に他ならない。
ネタをネタだとわかってしまうと、ネタに感情移入などできなくなる。
どういうことかといえば、人生というものも映画のようなものである以上、それが映画であり、
そのままでは自由意志など存在せず、あなたはただそれを見ているだけなのだという
知識=神の知識のネタバレさえしてしまえば、あなたはそれから自由になる。
自由になるということはどういうことか。
何が起ころうと執着しない。感情的になることもない。一時的にカッとなってもすぐにそれを
継続させることはない。そして感情や思考から自由になるということは、イコール自分が
神であるということを自覚することだから、そうなって初めてあなたは映画監督として自分の
好きなようなシナリオを創り上げていくことができる。
もっとも、もう映画の中で迷うのはコリゴリと思うかもしれないけどね。
大部分の人はこうして一本の映画の始まりと終り、生と死を経て、次の映画の中に転生してゆく。
六道輪廻とはこの事をいう。しかしそれは現実のものではない。レンタルビデオ屋でホラー映画を
借りて見終わったら返しに行ってアニメを借りて返しに行って次はドラマ・・・・そんなものだ。
- 630 : 鬼和尚 [sage] 投稿日:2010/04/09(金) 19:55:11 ID:FnCPO8bj [1/1回]
- >>614>>615 なかなか面白いのう。
良い喩えじゃ。
しかし、それを神の映画であるという映画を見ているようじゃのう。