- 358 : 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] 投稿日:2013/07/11(木) 21:19:23.80 ID:wBfkX7MD [1/1回]
- お釈迦様はこのように言っておる。
六 先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。
七 先ず自己を正しくととのえ、次いで他人に教えよ。
賢明な人は煩わされ悩む事が無いであろうから。
八 自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。
わたしは常にわが身をよくととのえている。
自分と言う者はまことに制し難いものである。
大抵の者は他人にこうせよ、ああせよと言うが自分はしてなかったりするものじゃ。
言うは易く、行なうは難しとことわざにもあるのじや。
怒りを離れていない者が、他人に怒りを離れよと言っても説得力は無いものじや。
自分が怒りを離れていなければ、他人に教える事は出来ず、また他人も納得しないじゃろう。
自分が苦心して怒りを捨て、もはや心が動く事が無くなれば、そのような境地に至った事を他人にも教えられるのじゃ。
そのように知識と経験があってこそ他人にも教えられるのじゃ。
修行者はそのように自ら経験し、行った事だけを他人にも教えたらよいのじゃ。
- 159 : 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] 投稿日:2013/07/08(月) 21:02:05.18 ID:V+2tbWEo [1/1回]
- ↑そうじゃ。
彼岸を目指すのじゃ。
- 19 : ロン[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 21:31:20.42 ID:pRFIg1sK [10/11回]
- >>18
仏にとって、栄誉とか財産はオマケだろうね。。
ゴータマ仏も祇園精舎とか寄進されても断らなかったわけだし。。
- 77 : 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] 投稿日:2013/07/07(日) 20:14:50.45 ID:/u+8YKUs [1/1回]
- >>19 それも修行の場所を必要とする弟子達のためであったじゃろう。
本人にはもはやわがものという所有の観念も無かったじゃろう。
地面を所有したと言っても、それは人が定めた法権の観念によるものでしかないからのう。
- 18 : 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] 投稿日:2013/07/06(土) 21:24:16.85 ID:nnQ99x4Z [1/1回]
- お釈迦様の教えとは本来、世の中の常識とは外れた道なのじゃ。
それ故に出世間の法とも呼ばれるのじゃ。
世の中の常識が金や名声や権力を求め、それらを積み重ねる道であるならば、お釈迦様の教えとはそのようなものを悉く捨て去る道なのじゃ。
富貴や栄達を捨て去り、乞食となって人家に食を乞うのが出家と呼ばれるのじゃ。
お釈迦様自身も他人の家に食を乞う手歩いたのじゃ。
一切の栄楽を捨て無一文の身になる事が安らぎへの道なのじゃ。
一切の財貨や名誉や権力は死に対しては何の役にも立たないのじゃ。
それらに執着する者は現実に行動しているように見えて、本当は死という現実には対処していないのじゃ。
一切の栄誉と財産を捨て、心を整える事こそ真の現実に対処する道なのじゃ。
死と言う現実に対処し、それを超えて人は目覚めた者と呼ばれるのじゃ。
そのようであってこそ肉体を持った意味もあった言えるのじゃ。
滅びていくしかない肉体で不死の境地に到達する事が出来たのであるからのう。
修行者は虚仮でしかない栄誉や財貨を捨てて、そのような永楽の境地を目指すのじゃ。