「【仏教】悟りを開いた人のスレ475【天空寺】」カテゴリーアーカイブ

心と宗教板 2020/01/23(Th

956 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/01/23(Thu) 21:41:10 ID:yTDcPZhd.net
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

心と宗教板 2020/01/23(Th

955 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/01/23(Thu) 21:40:44 ID:yTDcPZhd.net
 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

心と宗教板 2020/01/23(Th

682 :麦 ◆MUGI/AIUgo :2020/01/22(水) 23:37:34 ID:b9G0swvX.net>>954
>>678
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ本題は投影ですよwww

690 :野良:2020/01/23(木) 00:16:21.67 ID:vWbIISrc.net>>954
>>678
縁起とは、
すべての物事は原因があり、それ単体では存在せず、
あらゆる物事と繋がっていてそれによって結果があるという法ですね

概念に縁起するというのは、「概念に連想するとか想起するの言い間違え」でしょうかね
ある言葉を聞くと、あるイメージが湧いてしまう、という感じで。
概念に縁起する→言い換えると、ある言葉を聞いてあるイメージを想起することも
その人が生まれて長年形成されてきた縁起によるものかもしれませんね

ありがとうございました

691 :野良:2020/01/23(木) 00:20:56.47 ID:vWbIISrc.net>>954
>>679
追伸
鬼和尚さんが前におっしゃっていた
自分を変えようとしなくてもよいのじゃ、
ただひたすら心を観察するのじゃ
を実践し続けたところ、自分を変えることが出来る機会に恵まれました
自分は無知だったことが知恵の光によって明らかになったのです
迷いなく、無理なく、自分の道をゆっくり歩むことが出来ました
苦しみを滅するための苦しみを味わいました
でも、謙虚な姿勢で行きたいと思います
ありがとうございます。今後も分からないことがあれば質問しに来ますね
おやすみなさい

954 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/01/23(Thu) 21:40:01 ID:yTDcPZhd.net
>>682 知ったかぶりはやめるとよいのじゃ。
 わしのように本当に用語の意味を知った者から見れば、大笑いなのじゃ。
 いつも漫才を見ているようなものじゃ。
 ここで知ったかぶりの恥をひけらかしても何の意味もないのじゃ。

 臨済宗で発狂したかわいそうなおじさんを、天理王の命で助けてやろうとしても無理なのじゃ。
 更に発狂していくのじゃ。

>>690 そのようなことじゃろう。
 本当の縁起とは自我の生成にまで繋がる、常には見えない心の働きなのじゃ。
 連想程度のことではないのじゃ。
 
>>691 善かったのじゃ。
 またおいでなさい。

心と宗教板 2020/01/22(水)

681 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/01/22(水) 23:32:27 ID:znyHOXzr.net
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。

心と宗教板 2020/01/22(水)

680 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/01/22(水) 23:32:06 ID:znyHOXzr.net
 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。

心と宗教板 2020/01/22(水)

868 :仏教棄民の大山 :2020/01/23(木) 16:46:47.62 ID:6Z2SSQvz.net>>678
>>863
で、返事は?

678 :鬼和尚 :2020/01/22(水) 23:30:38.81 ID:znyHOXzr.net
>>868 そのようなことはありえないのじゃ。
 縁起とは心を観察するためにお釈迦様が説いた法であるからのう。

 縁起はするものではないのじゃ。
 心の働きが縁起していることを、観察することが出来るだけなのじゃ。
 仏教に無知な者がただの概念設定にそのように知ったかぶりをして、仏教用語を使っているだけなのじゃ。
 
 縁起という言葉はそのように使われるべきではなく、使えるものでもないのじゃ。
 愚かな者に囚われずに自分のしたことと、しなかったことを観て進むのじゃ。